第2回 経験重視の設計現場で即戦力を求められる新人時代

2018.06.04

プロローグ

第2回は、私の新人時代の体験談や苦労話を披露したいと思います。若手の方々にとっては身近で共通の課題や悩みが登場します。この若い頃の苦悩が30年の時を経て、後半で説明する支援開発や次世代設計プロセス(ハードウェア系のMBD/MBSE)へと結実していきますので、中堅や管理職の方々等にも参考になると思います。

エンジン設計者の夢叶う

1979年に東京大学工学部機械工学科を卒業し、本田技研工業に入社しました。ホンダでは1年程度の製造や営業等の現場実習を経てから正式配属となります。私は希望して本田技術研究所(四輪)のエンジン設計室に配属となりました。小さい頃から自動車やメカが好きで、エンジン設計者になりたいという夢を持っていましたので夢は叶いました。実際には、エンジン設計を希望したのは私一人だけだったというのが真相だったようですが、夢を持ち人に語り続けることが重要だと思います。この習慣が、後に支援開発プロジェクトを立ち上げていく時に、有志や資源を集めるのに大変役に立ちました。

魅力ある商品をタイムリーに開発する設計者の責任

ちなみに実習は短期間でしたが、自動車製造ラインに入って組立作業をし、販売の前線に出て戸別訪問を繰り返す厳しい日々を通して、製造や営業の苦労を知るという貴重な体験をすることができました。設計者には魅力ある商品をタイムリーに開発する責任があることを体で理解でき、後にエンジン開発統括をする時に企画や開発に生かされていきます。

配属先のエンジン設計部門は小所帯で、猛烈に忙しくも活気に溢れワクワクする楽しい職場でしたが、一方、野武士のような怖い古参の設計者も多く、技術には大変厳しい現場でもありました。“草食系”の自分にはついていけるのだろうかと大変心配したものです。

神業のエンジン設計者との出会い

当時はドラフターを用いた手書きの時代で、主任設計者1名がエンジン全体の基本レイアウトを行い、そのレイアウトに従って若手設計者が各部品の詳細設計と作図をするスタイルです。衝撃的な原体験として、神のような伝説の主任設計者が、まさに神業としか思えない設計をするのを目の当たりにしました。大型の白紙方眼紙が貼ってあるドラフターに向かったまま、何日間もタバコを吸いながら考えているのですが、ある時、一気に1日でエンジン全体を設計(レイアウト)してしまうのです。そのような神設計者に憧れて何事も真似をするようになりました。理想像が職場に存在することは自分の成長にとって大変重要なことですね。しかし、後に自分の才能では無理だと気づき、自分の強みを生かした独自の設計スタイルを追求していくことになり、最終的には、若手でもベテランを超える設計が可能となる次世代設計プロセスにつながっていきます。

個人の経験重視の設計現場で即戦力を求められる新人時代

配属した日に早速担当部品を与えられ、いきなり量産設計をすることになりました。当時はホンダも規模も小さく中小企業の延長で、各設計者が経験に基づき設計をしていました。新人育成システムはもとより設計手順書等も無く、先輩に聞き回ったり参考書を調べたりと試行錯誤して設計したものの、“全く考えていない”とダメ出しの連続で、何度も図面を書き直させられました。大学で機械工学を専攻し図学や設計演習も学び、設計にはそれなりに自信もありましたが、日々真剣勝負の設計現場ではほとんど通用せず、実質的にゼロスタートとなりました。悔しい思いでしたが、なんとか気持ちを切り替えて、改めて現場で学び直すことにしました。

小物部品でも決して手を抜かず、少しでも良い設計を目指すというという姿勢が身に付いたのは、この頃だと思います。少しずつ積み上げ続けるという姿勢はストレッチ(背伸び)と呼ばれるようですが、設計の才にあまり恵まれなかった自分が職場で勝ち残るには、この方法しかありませんでした。

本田宗一郎氏との予期せぬ出会い

出図期限に追われながら必死に製図をしていたある日、創業者の本田宗一郎氏が設計室にやってきて、ドラフターに向かっている私に「若いの頑張れよ!」と声をかけてくれたことがありました。本田氏には怖いイメージを持っていましたが実際は若手には優しい方で、創業者と直に接することができた最後の世代だと思います。

次回は、私の中堅時代の体験談をお話ししたいと思います。失敗が多くリカバリーに必死でしたが、結果として最も成長した時期です。きっと皆さんの参考にもなるでしょう。

 

技術顧問プロフィール
1979 年:東京大学工学部機械工学科を卒業 本田技術研究所(四輪)に入社
2016 年:本田技術研究所を退社 技術コンサルティング会社を立上げ
2017 年:プログレス・テクノロジーズ社の技術顧問に就任